ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー (1840-1893)
Pyotr I'lyich Tchaikovsky

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは辺境の地ヴォトキンスクで7人兄弟姉妹の次男として生れた。父は鉱山区長官をしていたが、趣味で声楽とフルートを得意とし、母も音楽愛好家でピョートルにピアノの手ほどきをした最初の人であった。ヴォトキンスクの付近は民謡の宝庫だったが、チャイコフスキーの音楽にあるロシア民謡的手法は、彼自身この地で育ち美しいロシア民謡をたくさん聴いていたからだと述べている。1848年一家はペテルブルグに移り、彼は家庭の事情で法律学校に入学し19歳で司法省の役人になる。勤務をしながら21歳でペテルブルグ音楽院にも入り音楽家の道をめざし、院長アントン・ルビンシテインの作曲クラスで徹底的に腕をみがいた。25歳で卒業すると同時にアントンの弟ニコライ・ルビンシテインを院長として開校されたモスクワ音楽院の教師として招かれる。その後1870年発表の幻想的序曲「ロミオとジュリエット」でロシア楽壇に確固たる基礎を築いた。
1877年わずか3ヶ月の結婚生活に破れ、精神的苦痛から逃れるため弟と共にベルリン、ジュネーブ、パリ、フィレンツェ、ローマへと足を伸ばした。医者に言われたとおり外国の空気は彼にとって最良の薬となり、すっかり旅行づいてしまった彼はその後1885年までほとんど外国暮らしで、特にフィレンツェには永住さえ考えた。名曲「イタリア奇想曲」、弦楽六重奏曲「フィレンツェの思い出」が生れた由縁である。

「情景」 「4羽の白鳥の踊り」 白鳥の湖より 
"Scene" "Danses des Cygnes"

チャイコフスキーの最初のバレエ音楽作品 「白鳥の湖」 は1875-76年に作曲され、1877年にモスクワのボリショイ劇場で初演された。初演は失敗であったとされている。 1895年サンクトペテルブルグのマリインスキー劇場で改訂全幕蘇演が行われ、以来代表的な古典バレエとして愛好されている。「白鳥の湖」 は、王子と悪魔の呪いにより白鳥に姿を変えられた王女との物語。
「情景」 は、王子が白鳥狩りに出かけ王女と出会う〈第1幕第2場〉の冒頭で演奏される前奏曲に当たり、白鳥のテーマが奏でられる。寂しい雰囲気が次第にダイナミックに盛り上がる。 クライマックスで奏でられる3連符は悪魔を暗示して、最後は無気味な弱音となって終わる。
「4羽の白鳥の踊り」は同じく〈第1幕第2場〉で、一連の白鳥の踊りの中の一つとして知られている曲。小さな白鳥4羽たちの踊りで、4人の踊り手が手を交差し組んで、コミカルに技巧的に踊る場面。単音の伴奏に乗って、哀愁を帯びた旋律が奏でられる。

「ロシアの踊り」 白鳥の湖より (1876)
"Russian Dance" from The Swan Lake Op.20

チャイコフスキーの代表的バレエ音楽作品「白鳥の湖」作品20は1875〜76年に作曲され、1877年にモスクワのボリショイ劇場で初演された。しかし、この「ロシアの踊り」および「新たに補足されたパ・ド・ドゥ」スコアはオリジナルにはなく、1953年にモスクワのスタニフラスキー=ネミロヴィッチ・ダンチェンコ記念国立音楽劇場のプルメイステルによって、チャイコフスキー博物館で発見されたもので、これらを加えた新演出によるバレエは同年4月25日に上演されているが、「ロシアの踊り」が「白鳥の湖」のために作曲されたかどうかは、未だに不明である。
モデラート、4分の2拍子の素朴なロシアの民謡舞曲。主旋律は独奏ヴァイオリンによって演奏される。

ナポリの歌 (1878)
Little Neapolitan Song

この「ナポリの歌」はピアノ曲「子供のアルバム」(24のやさしい小品)Op.39, No.18であるが、「白鳥の湖」の第22曲「ナポリの踊り」にも使われている。オーケストラ用原曲ではトランペット・ソロの曲である。

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