ヨハン・シュトラウス2世(1825.10.25〜1899.6.3)
Johann Strauss II

ヨハン・シュトラウス2世は、「ラデツキー行進曲」で有名なヨハン・シュトラウス1世の長男で、正式名はヨハン・バプティスト・シュトラウス。父は著名な音楽家であったが、子供達が音楽家になることに反対で、ヨハンは大学で経済学を専攻させられる。しかし、母親に音楽の手ほどきを受け、音楽的素養を身につけたヨハンは、父と同様に自らヴァイオリンを弾いて率いる管弦楽団を設立、父とは音楽家・作曲家のライバルとして競争することとなった。1849年父が死去した後2つの楽団を統一し、2人の弟ヨーゼフ、エドゥアルドと交替で指揮をして世界各地へ演奏旅行を行なった。父親を継いでウィンナワルツの発展に力を注ぎ、生涯にポルカや16曲のオペレッタを含め、作曲数は作品番号で479を数える。そのうちワルツは168曲。「ワルツ王」としてウィーンを代表する作曲家であり、現在もウィーンフィルハーモニー管弦楽団のニュー・イヤー・コンサートは、彼の作品を中心にプログラムが組まれている。しかし、3回目の結婚をするに際しドイツ国籍を取得し、晩年は大ドイツ主義的な傾向が作風にも窺われるのは興味深いところである。

美しく青きドナウ(1867)
An der schonen blauen Donau Op.314

1867年に当初は男声合唱曲として作曲されたが、反響はけっして好ましいものではなかった。パリ万博に際して、管弦楽曲に編曲して再演したところ大好評を博し、以降、オーストリアの第二の国歌と言われるまでに至った。冒頭は源流であるドナウの泉と黒い森の描写に始まり、ヨーロッパを東西にゆったりと流れるドナウ川が、優雅なワルツに乗せて描かれる。 

芸術家の生活(1867)
Kunstlerleben Op.316

本曲はウィーンの芸術家協会“宵の明星”(Hesperus)に献呈され、1867年2月18日、「美しく青きドナウ」の初演のわずか3日後に、同じ会場のディアナザールでの“宵の明星舞踏会”において初演された。しかしこの両曲はいろいろな点で実に対照的である。「青きドナウ」は入念に書かれたイントロダクションを持ち、曲中の転調も多く、随所にテンポや表情の指定がある典型的な演奏会用ワルツである。一方「芸術家の生活」はイントロダクションはあるものの、その半分以上が踊る人たちの準備の為のワルツのテンポで書かれ、調性もハ長調とヘ長調に限定され、強弱以外の表情記号もない古いタイプの舞踏会用ウィンナ・ワルツとなっている。 芸術家協会“宵の明星”は創立が1859年であるが、会員であったシュトラウス3兄弟は1870年まで毎年この協会の謝肉祭シーズン舞踏会のために曲を書いている。本曲は、これまで「芸術家の生涯」とも訳されていたが、3兄弟とも生存中の作品で、彼らの属する芸術家協会に献呈されていることから、日本シュトラウス協会では「芸術家の生活」を日本語の正式名称とした。

春の声(1882)
Fruhlingsstimmen Op.410

1882年、フランツ・リストと同席したパーティにて、即興演奏で纏め上げたと言われる。コロラトゥーラ・ソプラノのビアンカ・ビアンキの為のオーケストラ伴奏付歌曲として、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、大成功を収めた。昼のひばりと夜のナイチンゲールの歌声を模して、春の華やいだ情景が歌われる。その後、ピアノ編曲版を経て管弦楽版が出され、1883年3月18日にウィーン楽友協会の黄金のホールで開かれたシュトラウス演奏会の際に、弟エドゥアルドの指揮により演奏され、再び大成功を収めた。今日では管弦楽版がより多く演奏されている。

皇帝円舞曲(1889)
Kaiser-Walzer Op.437

1889年に「手に手をとって」という題名で作曲された。静かな行進曲の導入部に始まり、荘厳できらびやかなワルツが展開される、晩年では最も人気のある作品。初演はベルリンで行われたが、その後、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が、ドイツ(当時はプロイセン)のヴィルヘルム2世を表敬訪問した際に、二人の皇帝の友好をたたえる「皇帝円舞曲」へと題名が改められた。

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